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comments2005-10-16 : あまりにひどい文章だったので大幅修正,加筆.
最近,幾度か「無駄」「無意味」という概念に触れることがあったので,それに対するぼくの考えを記しておきます. 初期の麦酒堂に見られた,理屈臭いエントリです. 最近のトーンとの違いに戸惑われた方がいたら申し訳ありません.
まず根本の部分ですが,世の中に「本質的に無意味,無駄」というものは存在しないというのがぼくの考えです. 言葉を弄するようで恐縮ですが「無意味」「無駄」という概念は,ものごとの本質足りえないのは明白です. そこには,絶対に価値観が絡むから. つまり「無意味」「無駄」というものは価値観に基づく判断であり,ある特定の立場から,ある特定の価値基準に従って事物を評価した際にのみ現れる概念です. これは「本質」ではない. 他者からの評価を前提とした本質などありえない. そういった考えから,ぼくは以下の信念を持っています.
世の中には本質的に「無駄である」「無意味である」というものは存在しない言葉遊びかもしれません. でもここにロジックエラーは無い筈です. 世の中には,価値観から切り離された「本質的」な「無駄」「無意味」は存在し得ない. 在るとすればイデア的に純粋な「無駄」「無意味」の概念だけ.
でもだからといって,世の全てを「意味があるものである」と評する,妙に宗教的,楽観的な立場と同義ではありません.
世の事物は,それ自身では純粋に「在る」だけのものであって,そこに意義や意味を見出すのは,人間の「価値観に基づく意識」に他なりません. つまり世の事物そのものは意味を持たないし意義もない. あ,「意味を持たない」と「無意味」は別ですよ. 前者は属性の不在.後者はレッテルの存在.
世の事物は本来真っ白真っさらであって「意味」という属性は持ちません. そこにレッテルを貼るのはあくまでも価値観に基づく意識です. つまり,レッテルが存在するためにはそれを「貼る」という行為の主体が不可欠ってこと. ある人が「Aは無意味だ」と言うときに,必ずその裏では「私は『Aは無意味だ』と考える」という評価を行っていると解釈できます. この評価は「私」という主体とは不可分なので,A の普遍的な本質足りえないことは明白です. 「無意味」というレッテルは「私」と「A」の間に存在しているということはしっかり認識しておくべきでしょう. 異なる立場,価値観からは「A」は非常に価値のあるものかもしれない.
繰り返しになりますが,ぼくは「世の中に無駄なものなんてない」と思っているわけではありません. 「私は『Aは無意味だ』と考える」という態度を批判しているのでもありません. 何らかの価値観,基準に則って無意味だ,無駄だと判断することそれ自体はまったく問題なしです. ただ,その判断の背景となっている自分の価値観の存在を明確に自覚すべきだ,ってこと. ありがちな間違いは「無駄なものなんてない.だから現状肯定.きっとこれには何か意味があるはず.今のままで大丈夫」という態度. それは甘えでしかありません. 自分の価値観に照らして「無駄である」と判断するのであればそれを冷静に受け止めた上でどうすべきか考えるべきであって,それを避けて全肯定で思考停止するのでは何も生まれません. なぜ自分はそれを無駄なものであると判断するのか,なぜその無駄が発生したのか,次同じ状況に直面したときにどうすれば無駄の発生を回避できるか,などなど考えられることはたくさんあるはずです.
以上,「Aは無意味である」と無自覚に切り捨てないように,「全ては意味を持つはずだから」と安易に前向きさに逃げないように,という自戒でした.
MTEntryMore元の文章最近,幾度か「無駄」「無意味」という概念に触れることがあったので,それに対するぼくの考えを記しておきます. 初期の麦酒堂に見られた,理屈臭いエントリです. 最近のトーンとの違いに戸惑われた方がいたら申し訳ありません.
まず根本の部分ですが,世の中に「本質的に無意味,無駄」というものは存在しないというのがぼくの考えです. 言葉を弄するようで恐縮ですが「無意味」「無駄」という概念は,ものごとの本質足りえないのは明白です. そこには,絶対に価値観が絡むから. つまり「無意味」「無駄」というものは価値観に基づく判断であり,ある特定の立場から,ある特定の価値基準に従って物事を評価した際にのみ現れる概念です. これは「本質」ではない. 他者からの評価を前提とした本質などありえない. そういった考えから,ぼくは以下の信念を持っています.
世の中には本質的に「無駄である」「無意味である」というものは存在しない言葉遊びかもしれません. でもここにロジックエラーは無い筈です. 世の中には,価値観から切り離された「本質的」な「無駄」「無意味」は存在し得ない. 在るとすればイデア的に純粋な「無駄」「無意味」の概念だけ.
でもだからといって,世の全てを「意味があるものである」と評する,妙に宗教的,楽観的な立場とは同義ではありません.
世の事象は,それ自身では純粋に「在る」だけのものであって,そこに意義や意味を見出すのは,人間の「価値観に基づく意識」に他なりません. つまり,世の事象そのものについては意味もなければ意義もない. 「無意味」「無意義」との差異は汲んでいただけると幸いだが,敢えて言葉で表現するとすると,ネガティブな意味合いの有無か. 世の事象は「在る」だけであり,本質的にネガティブではない.ポジティブでもない.
そんな事象に意味を与えるのは,あくまでも意識であり,価値観である. 意識による精査なしに「無意味」と評されるものは,その価値基準が曖昧であるがゆえに信頼すべきではない. それは別の異なった価値基準からは無意味ではないかもしれない.
前言の繰り返しになるが,全てのものごとに意味があると言いたいわけではない. むしろその逆で「意識して物事を捉えない限り,全てのものごとは無意味となりえる」ということを言いたい.
ある人が「Aは無意味だった」というときに,その実は「Aは無意味と私は思う」という判断を下しているに過ぎない. その「Aは無意味」という判断こそがその人の価値観からひねり出された価値判断である. その判断自体はそう簡単に覆されるべきものではないと,私は考えるが,しかしまたそれは普遍的な本質足りえない.
つまり「無意味」「無駄」を論じるときには,そう判断するに至った価値観も同時に論じないことには,そもそも議論の発端からしてずれてしまいかねない. ここで無自覚,無邪気に「意味のあるものないもの」を論じてしまうと,結局は何の合意も得られないままに(そもそもスタートラインがずれているのだ),話は発散するだろう.
「無意味」「無駄」を論じるときには,誰が,何のために,どういう立場で,どういう価値基準で話しているかを常に意識する必要があるというのが,私の主張である.
そういう意味で,「私」の外に独立した「無意味」「無駄」が存在するわけではない点をここで強調したい. ある事象は,自分自身の捉え方次第で「無意味」にも「無駄」にもなりえるもなのだ. あるものごとを「無意味」と評しようと思ったときに,それを無意味と評するに足るだけの,自分自身の内面での必然性があることに対しては,無自覚になるべきではないだろう.
うーん.
酔っぱらって書いた文章を素面で読むと,何でこんなに恥ずかしいんだろう.書いたのは自分なのに.
長い割に内容ないし.同じ事を繰り返し書いてるし.接続詞が文をきちんとつないでないし.
そもそも,こんなん書く暇あったら記事を書けと.w
あ,書き直して以降あらためて読み直してみて,コメントが自分のなかでは正しくない(正しくなくなってしまった)ことに気付きました.一個目のコメントは書き直し前のもの.
素面で書き直したので,今はある程度自分でも納得している内容です.
「Aは無意味である」と無自覚に切り捨てないように,「全ては意味を持つはずだから」と安易な前向きさに逃げないように